(by S. Miyauchi, Professional Engineer, Doctor of Engineering, JSME Fellow)
8日は昔から行きたかった龍門石窟、少し靄った陽光に、伊河の水面はキラキラ輝き、大柳の並木は青々して、春の様な陽気。下流側の賓陽中洞は北魏時代の開鑿、古拙で武骨な大同の雲崗仏に似た長顔の仏は僅かに微笑み、ガイドの于愛紅さんに「法隆寺の釈迦三尊像にやはり似ている」と言った。于さんは洛陽市外事僑務服務中心の事務局長をされ、姉妹都市である岡山市(岡崎嘉平太さん以来の縁)との事務や企画、また民間交流(相互の1週間のホームステイ等)を精力的に行っており、ガイドとしての洛陽の文化や歴史の知識と日本語だけではなく、お人柄も素晴しい方だった。このため、楽しく有意義な洛陽観光となったが、これは清華大学によるガイドの手配のためと思われ、多謝。洛陽人は西安への対抗意識があるのか「三蔵法師の出身地や唐三彩の産地は洛陽近郊」と強調されたが、京都人と奈良人の関係に似ていると思った。
また則天武后にも好意的だったが、武川鎮の貴族を排して科挙出身の有能な下級貴族を登用し、玄宗の開元の治を用意したのは、大きな功績であろう。
この広大な石窟の処々には大小、無数の仏。その幾つかの小仏は黒光りしており、善男善女が1000年以上、祈りと共に触ったのではと思い、私も手を触れた。更に則天武后の弥勒仏、また褚遂良の伊闕仏龕碑や北魏の龍門石碑体(造像記の龍門二十品。初期の楷書体)の話等を于さんから聞きながら、奉先寺に到着。その大階段も1つの舞台仕立てと思いつつ登るといきなり、有名な高さ17mの大仏が目前に。その スケール感と優美な顔立ち、また脇侍仏や守護神に圧倒され、当時最大の世界帝国、唐に流行した仏教は当時最大の世界宗教と思った。その雄渾さに気押されていると、ガイドの于さんも自慢げに「遣唐使も見て、・・ ・」
と言いかけたので、私も日本文化を自慢したくなり「世界1の鋳造仏、奈良の大仏」とすかさず言った。なお日本がまだ大陸の一部だった中生代(2.3 億年前)、南中国地塊(原生代基盤岩)が北上し北中国地塊(太古代基盤岩)に衝突。秦嶺から伏牛、大別と連なる山脈(黄河と漢江、淮河の分水嶺)の衝突造山帯が生じたが、龍門の石灰岩や特産の菊花石、牡丹石はその際に隆起か。地名「龍門」は伊河の長い谷の地形、またこの造山帯のためかと思った(古代人の神祠等のパワースポットは、地磁気の大きい造山帯や断層帯等に多)。またこの石灰岩の山からの湧水か、禹王池や珍珠泉の水面は滾々と清々。秋の夜には空に冴ゆる銀漢や月を映そうと思った。
なお于さんの旅行社勤務時代の後輩、洛陽王朝国際旅行社の徐晟総経理助理と、龍門石窟の広々とした駐車場で朝、偶然、お会いしたが、北京師範大学付属高校生120人の修学旅行を案内中。日本の仏教団体 や大学(考古学)の関係者や先生方をご案内し、リピータも多い、また京都や奈良が好きで良く行くが、これらの方々と家族ぐるみで旧交を温められているとの事。日本にとり、中国は市場や来日観光客(昨年は833万人、全体の1/4以上)等の面で重要だが、その基本は善隣関係また人と人との交流と改めて思った。日本人の訪中観光客は近年、少ないが、これだけの文化遺跡と自然を見に行くべきと思う。来年は西安へ行き、兵馬俑や函谷関、王維ゆかりの終南山、華山、更に漢中の桟道を経て四川へも足を伸ばしたいと思っている。
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